2007年08月12日

よさこい祭り

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FDの無残な試合をよそに、高知では
よさこい祭りで賑わっている。

にゃお吉さんのブログで信金のポスター
にでも使えそうな素晴らしい写真を発見。
無断で転載さして貰った。
(にゃお吉さんゴメンナサイ)

そこで、”よさこい”の歴史を一言?。
(かなり長いのでご容赦)


”よさこい”と”YOSAKOI"

日本中の若者達が熱くなっている。
土佐で生まれた小さな小さな踊りが、日本全国を駆け巡り、
大きなうねりとなって突き進んでいる。
全国2百ヶ所およそ7千団体、五十万とも百万とも言われる
踊り子達の数はこの瞬間も増え続けている。

ルーツ
昭和28年4月13日、高知県商工会議所で行なわれた
常議員会での、入交太兵衛議員の一言が全ての始まりとなる。

「商店街の先々の事を考えると、徳島の阿波踊りのような
人々が喜んで集まってくる、長続きのする何かを
今考えにゃいかんのじゃないか。」

昭和29年第一回よさこい祭りは21団体、758人の踊り子が
ハッピ姿と鳥追い姿で参加して開催された。
この時の踊りこそが”よさこい鳴子踊り”そのものである。

市内の料亭や旅館に伝わるお座敷踊り”よさこい踊り”に
少し手を加え”新しいよさこい踊り”として昭和25年の
南国博の芸能館で紹介し、熱狂的な拍手を浴びた。
これに気を良くした会議所は、踊り子隊を編成、不況の続く
市内工場の慰問をして、話題を賑わした経緯があった。

この踊りを祭りに使うべく、花柳、若柳、藤間、坂東、山村の
県内日舞五流派のお師匠さん達に振り付けを依頼、
座敷踊りの”よさこい踊り”は街頭踊りの”よさこい鳴子踊り”
として誕生したのである。
歌詞、曲については発表当時、盗作ではないかとの物議を醸しだす
が、後日当の武政英策の話を聞けば、本当に”ヤチも無い”話で
有名になった人を誹謗中傷する輩は、昔も今も変わらず居ると
苦笑いしてしまう。

29年8月10日午後2時、高知城追手門内の本部と帯屋町2丁目
グリーンロード、はりまや橋、加美町丁目、愛宕。菜園場
梅ヶ辻の市内7ヶ所の特設舞台で、ヨッチョレの掛け声と共に
鳴子の音が鳴り響いた。

成長
32年(第4回)に、それまでとは違った変化が出てくる。
踊りの伴奏は、都はるみのレコードだったのが、(会場担当)
いくつかのチームに特別編成のバンドが登場、地方車迄出てきて、
迫力と派手さの競い合いが始まる。
33年(第5回)にして早くもマンボ調の踊りが登場、これを
規定無視と取るか、成長ととるか?
ただこの振り付けが論議になったと言う記録は無い。

35年(第7回)”阿波踊りとの交歓が始まる。
伝統の踊りを見て、マンボ調の踊り子達は何を感じたのだろう。
主催者側を含め、多くの踊り子達は多いに感動したのだろう、
45年(第17回)までの10年間大きな変化は見られなかった。
伝統を守ると言う事は、ある意味成長しない(形態を変えない)
と言う事。
しかし46年(第18回)その反発がドル(オイル)ショック
と言う不況と共にやって来る。
伝統と言う名の下に規制されていた若者達の不満は最高潮に達し
踊りも伴奏も”基本の形”を無視、エレキギターやドラムで
ロックのリズムの熱狂乱舞、”よさこい”は再び成長を始める。

47年(第19回)よさこいの歴史で、入交太兵衛、武正英策
続いて荒谷深雪と言う人物が登場する。
よさこいを初めて国外に持ち出した人、武正のサンバ調の新曲に
乗せ、それまでの鳴子踊りを一変、進化した踊りを
フランスへ持ち込んだ。

99回を迎えたニースカーニバル、”佐渡おけさ”や”花笠音頭”
に混じり”サンバ調の鳴子踊り”はニースで主役となった。

その踊りは本祭でも選抜チームにより披露され、鳴子踊りの
可能性を大きくアピールした。
彼女はその後もロス、西安、ハンブルグ、マルセイユ等多くの
都市へ行き、高知の”鳴子踊り”を紹介した。

52年(第24回)初めてパレードでの地方車の先導伴奏が認められ、各チームの”伴奏合戦”開始。
雑音以外の何物でもない地方車が走り回る事になる。
ただ、何故かハッピにハチマキ、浴衣姿と言うダサイ(若者に
人気の無い)衣装だけは変化が無かった。
55年(27回)に参加チーム全てに地方車先導が義務付けられた。

変身
58年(第30回)8月10日一人の女性がグッドライフCP
と言うチームの踊り子の先頭で、一心不乱に鳴子を鳴らし踊っていた
初参加チームの振り付けを担当した、國友須賀である。
彼女がこの”よさこい鳴子踊り”を全国100万人近くの人々に
踊らす事になろうとは、誰も予想出来なかったであろう。
当の本人さえも。


國友須賀は劇団”四季”を退団後市内でジャズダンススタジオを
主宰したばかり、これまでになかったジャズダンスを振り付けに
取り入れ、全く新しいスタイルを築き上げて行く。
59年(第31回)”いろはにほへと”チームで、それまでの
概念を打ち破る踊り、衣装、曲で各賞を総なめ、
そうすると、当然の様にあちこちからクレームが出始めた。

”よさこい”史上これ程迄関係者のバッシングを喰らった人物は
存在しない、高知放送の深夜番組「朝まで討論、よさこいのあり方」
と言う特番まで登場、「須賀のスタイルは祭りの伝統を汚す」
として、他のパネリスト達から否定された。
阿波踊りの主催者と称する人物からは須賀どころか”よさこい”
そのもの迄見下した発言が出る始末、
「伝統そのものが.....」故青柳裕介に至っては
「うるさい事は競輪場か競馬場の中でやれ」ときた。

規定を重視して伝統を作っていきたい振興会、伝統など関係なく
踊りそのものを楽しみたい踊り子達。
どちらが正しいかではなく、どう変化していくのか、
”よさこい”の歴史を振り返れば答えは明白なのだが、
そこは何時の時代も”お役所仕事”出る杭は打たれただけ。
(彼女は後にyosakoiソーランからも除名される事になる)

これだけでは、現在の”よさこい”の発展は無かったのだが、
”よさこい”そして”YOSAKOI"史上伝説の男が登場して、
國友須賀の名前は全国の若者達に受け入れられる事になる。

62年県の観光連盟の依頼で、東京の銀座パレードなどに参加
須賀は徐々に大衆の支持を得始めていたが、当時盛況を収めていた
セントラルグループの新チームの立ち上げに参加、これにより
彼女の振り付けは反発を受けつつも一段と冴え渡って行く。

合体
平成元年(第36回)山本文吉率いる”あほんだら会”を中心と
する、セントラルグループは全てにおいて他のチームを圧倒して
いた。須賀によって変身した踊り、高知レコーの故安岡による
斬新な音楽、四国舞台照明明神による嘗て無かった程見事な照明、
ファッショナブルな踊り子のメイク、衣装、僅か1年で踊り子の
若者達が「セントラルで踊りたい」と言い出した。
もう誰も須賀の勢いを止められなくなっていた。

平成3年(第38回)歴史的瞬間と言っても過言では無い時が
訪れる。帯屋町のアーケードの中で高知に来ていた北海道大学の学生が、偶然セントラルの踊りを見るのである。

彼が”YOSAKOIソーラン祭り”を立ち上げた長谷川岳である。

後日札幌クレストホテルのロビーで彼にインタビューした時
彼ははっきりと私に言った、
「セントラルの踊りでなかったら”YOSAKOIソーラン”を作ろう
とは思わなかった」
と。
それ程に須賀の踊りは若者の心を虜にする何かが有った。

伝説の男、長谷川岳の苦労はこの日から始まるのだが、
それについては「踊れ!!」(軍司貞則著)の中で詳しく載っている
ので、此処では省く。
平成4年6月13日、幾多の苦労を乗り越え、札幌の大通公園で
ソーラン節、須賀とセントラルのよさこい(高知のよさこいでは
無い事を断っておく)の合体した”YOSAKOIソーラン祭り”が
開催された。
この日を境に高知の”よさこい”も大きく変化していくのだが、
それは”ソーラン節”の魅力に大きく関係している。

鳴子踊りの歌詞は前述の武政英策が、盗作云々の時に堂々と
述べている様に「曲と歌詞は、色んな歌からの寄せ集め、つまり
デッチ上げであって、作詞でも作曲でもない。」程度の物であって
昔ならいざ知らず、現代の若者達に似合う筈が無い。
ヨッチョレ、ヨッチョレは軽すぎたのである。
重々しくリズム感のあるソーラン節、続いて情緒たっぷりに
「とオさアのー高知のオー」と来る”動”から”静”への転換。
これこそが、安岡や須賀の尤も苦労した部分であったが、
ソーランとの合体により他のチームも簡単に、
ごく自然に作り上げる事が可能に成った。
それに加え極め付けは須賀が日本全国の踊りからヒントを得た
と言う掛け声である。
”ヨッチョレ、ヨッチョレ”や”ハイツ、ハイツ”一辺倒から
”ヨイヤサー。ヨイヤサー””ウーッ、ソイヤアー”と叫べば
思わず観衆の目と耳を釘付けにする力が出てくる。

現代の若者の不満や踊る喜びが腹の底から湧き上がってくる。
こんな踊りが大衆に受け入れられぬ筈が無い。
ソーランと合体した”よさこい”は”YOSAKOI"となって
日本全国へと広がり、高知の”よさこい”を根底から
変貌さすことになった。

発展
”YOSAKOIソーラン”は巨大な資本と人脈を擁して、その魅力を
全国に拡大しつつある、一方セントラルを離れた國友須賀も
日本国内はもとより、ホノルルフェスティバル参加、
マウイのジョン万次郎フェスティバルの立ち上げ等で
過密なスケジュールに追われる日々を過ごしている。

入交太兵衛の一言で誕生した鳴子踊りは、武政英策、荒谷深雪
國友須賀、長谷川岳の名を”よさこい”の歴史に刻み
今尚世界に発展し続けている。

既に第二の長谷川岳や、山本文吉、荒谷深雪は現れているが
残念ながら第二の國友須賀だけは現れてこない。
何故彼女でなければならなかったのか、それは私には解らないが
若者達の心を掴む何かを備えていた事だけは理解できる。

いずれにしても祭りの発展は私達の願いである。どこかキナ臭い
話もチラホラ耳にする今、祭り本来のの意味をもう一度
考える時期に来ているのは間違いない。
その意味も込めて最後に武政英策の残した言葉で記事を
終りとしたい。

「郷土芸能は、民衆の心の躍動である。何処の誰ベえが作ったか
解らないものが、忘れられたり間違った利子ながら次第に角がとれ
シンプル化していくものである、要は民衆の心に浮け居られるかどうかが問題で、よさこい鳴子踊りにしても、これからどんなに
変わっていっても構わないと思っている」
(”よさこい祭り20年史”より)

ーーーーーーー

これは嘗て私が発行していた高知県人誌に載せたものだが、
僅か6年の間に高知と札幌での”本家争い”がおこり
”YOSAKOIソーラン”への須賀振り付けチーム参加拒否、
セントラル踊り子隊撤退、長谷川岳更迭と様々なキナ臭い
出来事が起こった。
利権の渦巻く世界では当然の出来事であるが、それとは関係なく
若者達のパワーは全開である。

私の友人が長く祭りを記録しているが、突然局から高知大丸の
取材を依頼された事がある。
それも5月である、彼は打ち合わせから練習風景迄を記録し
8月の本祭には、このチームに同行した。
そして、見事に”よさこい祭り”のグランプリ受賞の瞬間を
記録したのである。
嘗て高知大丸チームがグランプリをとった事は無い。
しかし、この年は高知大丸創立OO周年と言う特別の年であった。
これが単なる偶然か、それとも.....

今年のグランプリは”ほにやチーム”である。
”ほにや”は和装小物を扱うお店だが、他チームの衣装も
数多く扱っている。東京支店が好調な伸びを見せ、
今年は海外に出店するほどの勢いを見せる。
ちなみに”十人十彩”は長浜の病院長の息子さんのチーム。

さて、来年のグランプリは......



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posted by T−Rex at 16:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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