2008年08月28日

戦争責任 2

戦争の責任は誰かが取るものではなく、敗者が勝者に
仕方なく取らされるもの。


その責任は戦争をした当事者達が、終戦時に問う物であって
それ以降に繰り返し問う物ではない。

この原則を無視して、昔の事を何時までも蒸し返しているから
争いは現在も続いているのである。

但しこれは対国家間、対民族間の事であって、国に対するその国
の一般国民の責任追及は話は別である。
(例を挙げれば従軍慰安婦問題など)

日本は度重なる侵略戦争において周辺各国へ多大な損害を与えた。
それは紛れも無い事実であり、その為敗戦時当然の事として
その責任を負わされた。

それでも未だにその責任を問い続ける国がある。

特に(韓国、北朝鮮)朝鮮民族の反日感情は戦時中、いやそれ以降の
民族間の対立により凄まじい者がある。

確かに長い歴史の中で、私達日本人が朝鮮民族にしてきた事は
余りにもひど過ぎた。
ある意味ナチスドイツがユダヤ民族にしてきた仕打ち以上かも
しれない。

しかしそれは現在のドイツ民族をユダヤ民族が攻撃するのと
同様、新たな戦争を起こすきっかけにしかならない。

ユダヤ民族を虐待したのは過去のドイツ民族(ヒトラーを
初めとする戦時中のドイツ民族)であり現在のドイツ民族ではない。

同様に過去朝鮮民族を虐待してきたのは過去の日本民族(決して
大和民族だけではない)であり、現在の私達日本民族ではない。

過去の日本民族は、その終戦時戦争責任は負わされている筈である。
(但し民族間の争いや、確執については戦争責任とは別物で
 複雑な問題が絡むので、ここでは述べない)

歴史の中で日本はもとより、朝鮮だけでなく世界の戦争は
常に敗者は財産どころか、その人権まで失うのが常であった。

戦争の敗者なら未だ仕方がない部分もあるが、戦争さえ出来ずに
奴隷として売買されたアフリカ黒人は哀れとしか言いようが無い。

しかし現在も行なわれている、アメリカ対イスラム世界や
新しい所ではオセチアの戦争を除き、過去行なわれた戦争の
責任を何時までも私達が背負ったり、追求するのであれば、
お互い怨みだけが残るだけで未来永劫「平和」は訪れない。

「戦争責任はその国の国民全体が背負うものであるが、
 その責任は終戦時存在した国民だけのものであり、
 言い換えれば、終戦時存在しなかった国民が相手国民に
 何時までも追及するものではない。」


つまり私達は過去の戦争責任を負わされる事が無いが、
過去の戦争においては、如何なる責任も問うべきではない。
(自衛隊を派遣してアメリカに協力した以上、イスラム世界
 からは何れ責任を負わされるハメになるだろう。)

毎年過去の戦争責任を追及した番組が放映されるのだが、
「戦争を否定」している筈の私達が実は現在も否定する戦争に
否応無く参加している事に気が付いている人が、一体どれくらい
存在しているのだろうか?

もう一度「戦争責任」「戦争」について真剣に考えるべき時が
来ている様に思えるのが。

さて、話をもとに戻して、私達「利己主義」な人間の話。
人間の本質は利己主義と述べてきたが、実は救われる事に
実際はそれだけでは無い。

私達人間には救われる事に、本質である「利己主義」を抑制する
為に、「理性」という物が備わっている。
「利己主義」を「本能」「エゴ」「本音」と例えるなら
「理性」は「たてまえ」となるかも知れない。
この「理性」の強い人、「理性」が「本能」を抑える事が
出来る人が「個人主義」「博愛主義」に連なっていく。

言っておくが決して「愛」では無い。
「愛」と言う言葉を勘違いしている人が多いと思うが、
この言葉ほど人間の「利己主義」を現している言葉は無い。

異性間、又は同姓間の愛、肉親愛等、様々な「愛」が賛美され
存在する。
「愛は地球を救う」なんてのもある。

「愛」は賛美され「利己主義」は軽蔑される。
この二つの言葉が全く同じ物だと言う事を簡単に説明しよう。
貴方が誰かを愛したとしよう、その人は

貴方にとって大事な人であり

私達にとっては、何の関係も無い人である。

「愛する」と言う行為が如何に「利己的」かがお解かりだろう。

「愛が地球を救う」のではなくて、「哀れみ」や「同情」が
「地球を救う」のである。

こう言うと、お叱りを受けそうだが、「哀れみ」や「同情」
こそ一番大事な事であり、「他人を見下した言葉」と思うのは
大きな勘違いである。


世界中の人間が愛し合う事は言葉では簡単だが実際は
不可能に近い。、
反面世界中の人間が抱えている様々な問題を、
それぞれが「哀れみ」「同情」する事はたやすいのではないか。
これが「利己主義」な人間が「個人主義」へと変われる
第一歩であり、争いを防ぐ唯一の方法である。


「愛」と言う言葉の本質を理解しないで、世界で一番大事な言葉
と受け取るのは、例えて言うならば
未だにアイランドリーグの選手達がNPBで通用する
と思っているコアなファン達同様「無知な人達」であると言えよう。

戦争や争い事は「愛」と「同情」の区別をつけられない
「無知な人達」がいる為に起こるのである。


こう言うと「愛」が人間には不必要なものに取られるかも
知れないので、決してそうではない事も述べたいが、
それは次回に補足したい。




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posted by T−Rex at 21:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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